コムレ

 コムレは僕たちの学年では一番太った子どもではあったが、学年の人数がそもそも少ないので、生活習慣のまずさによっては誰でも彼の代わりにその座に就くことができただろうという、その程度の体型をしているにすぎなかった。それで、明るく振る舞うのに嫌われていたのは、彼の目が動物のように表面だけできらきら光っていたのが原因かなと思う。補聴器をつけていて、古くてつまらなそうなネットゲームをいつまでもつづけて、そのなかで短い恋愛をいくつかした。僕とシナガワは彼に何度も恋愛に関する話をさせて笑った。その詳細とは無関係に、それらはあらかじめ必ず笑うべきもののように思えた。夏休みがあけてその次の月曜日から彼は学校に来なくなった。

 僕たちは放課後を海ですごすことに毎日を賭けていた。帰りの会の号令で頭をさげてもう一度あげるときには、だから、既に海に行く仲間を募りはじめているというのが常だった。夏休み前には、海行く人ぉ、と叫んでいたのに、今では、海、とだけ省略して叫ぶことになっている。それは僕の成果だった。海行く人ぉ、という響きが長ったらしくて美しくないとあるとき感じて、ある日とつぜん、海、とだけ言ってみたのだ。それからゆっくり、みんな、海、とだけ言うようになった。水面下で起きたその変化を主導したことを僕は密かに誇っていた。

 しかし毎日ほぼ同じ者が海に行くのだから海、海と叫ぶ必要はなく、何も言わずに黙って海に向かうグループに合流すればよいのだ。僕はそう考えると、どうしてもそういうふうにしなければならないように感じた。いつも教室の後ろドアの外側の廊下で他の生徒たちの帰宅を数秒ずつ遅延させている邪魔なが僕たちのグループだった。僕が黙ってそこに合流すると、シナガワとカキハラが目の動きだけで反応し、それを見たオギがこちらを振りかえった。クノとタナカは背中を向けたままだった。シナガワが顎をもちあげて教室と廊下の両方を見回して、オギの背を軽く叩くと、オギが叫ぶ。海行く人ぉ、もういないねぇ、行っちゃうよぉ。誰もいなくて、だまのようになって僕たちは廊下を進んだ。みんな、今日は叫ばなかった僕のことをなんとも思わなかったか、さもなくば気づいていてその態度をなんらか肯定したのだ、このままいけば、数日後には誰も何も言わずに海に向かうようになっているかもしれない。そうなればいい、と僕は思った。だまは、形を細長く変形させながら階段をすべって、下駄箱前でいちどばらばらに拡散し、ふたたびあつまって、校門から放出された。

 海は学校から平らな道を1.27キロ歩いたところにある。距離は社会の授業で調べた。崖とも山ともいえない微妙なおおきさの岩に囲まれた内側の、開かれていない、低いところ。砂利道をゆっくり降りていった場所にある、ちいさな砂浜とちいさな海だった。この浜が(あの)海だ、ということをはじめて理解した幼い頃の自分は、波打ち際を眺めながら、これが海の輪郭の一部をなしているんだ、と考えるのが好きだった。どこから流れ着いたのか、インド料理屋の主人が着るような真っ黄色のTシャツが砂に洗われてやぶけていた。カキハラはそれを丸めて投げた。本来の力を大幅に越えて遠くへ飛ばそうとしすぎ、カキハラのぺらぺらの上腕は無理に筋張っていた。Tシャツの球はひらけて海に落ちる。そんなのどこに売ってんの。知らねえよ。

 僕たちは岩陰に向かって海パンに着替えた。タナカが陰茎をみせるとみんな喜んだ。シナガワも見せるともっと喜んだ。シナガワは陰茎を水着にしまうと、勢いよく海に駆け込んでみせた。後に続いた子供が一人ひとり海に浮いた。9月の海のつめたさに海パン越しに陰茎をつよくにぎられて僕たちは笑った。社会を成り立たせている全てはほんとうは存在しないんじゃないか。海に浮かんだワカメが信じられないくらい輝いていた。そういえば僕はコムレは馬鹿だと思った。学校に来ないからではなく海に来ないから馬鹿だと思った。海に浮かばないから、世の中の《実在するものたち》なんかにしばられて、登校拒否をする。そう思った。

 僕の精神が変調を来し始めたのはその5年後の春のことだった。思春期、受験のストレス、人間関係、さまざまに述べたててもその理由は曖昧で、単にそういう病気だ、と考えるのが僕の気に入った。とにかく学校に行けない。病院に行き診断書を貰って大人に渡すのは意外なほど簡単な仕事だった。実家から通うことのできない立地の高校に通っていたから、実家に帰ることになった。それからはかなりの時間を海ですごした。濡れていない岩の上にしゃがんで、水を触る。もう誰も来なくなった海のとなりに僕だけはすわってやる。

 あのう、撮影に来た者なんですけども、退いてもらうことってできますかね。見知らぬ男が首にカメラをさげていた。浜辺につながっている礫の坂の上に車が停めてあるのが見えて、中からまっしろけの女の子が出てきて、本当にバカバカしい写真を撮るのだろうな、こいつらは、と僕は考えた。海に女の子が足をひたして、腰だけひねってカメラの方を向く。天使の輪。男はバカみたいに接写する。あるいは後ろ歩きして全身を撮る。それを繰り返す。

 僕はまず女の子の横っ面をぶん殴ることから始めようと思った。そんなふうにして何かが始まったことなどないと知ってはいた。岩陰から立ち上がり、女の子のほうにゆっくり歩く。母親に買ってもらったウインドブレーカーががさがさと音を立てて、カメラマンの男を振り向かせた。僕は僕の踏む砂が鳴る音だけ聴きながら二人にさらに近づいた。どうしました、とカメラマンが口を開いた。おまえはとても卑しい人間だ。おまえはおまえの隣人たちと交際をつづけるに値しない糞野郎だ。僕は心の中で唱えつづけた。心臓に歯が生えているのを想像して、今はそれをずっと噛み締めていなくてはならない、と考えた。鉄槌を振り回しちゃいけないと思いますか、しかし人間を無差別にとっつかまえてみれば大抵ろくなことを考えてないのだ、いいんじゃないですか。脚はがたがた震えた。僕はまっしろけの女の子をぶん殴った。即座、カメラマンに突き飛ばされる。僕は重心を低くし、彼に突進した。押し倒す。カメラマンの背中が海水で濡れる。立ち上がって逃げようする彼の胸や横腹を何度も強く踏む。僕たちは静かに呻いたり力んだりする以外では何の声も発さなかった。女の子が掴みかかってくるのを振り払い、ちょうどいい大きさの礫をにぎりしめてカメラマンの頬を殴ろうとしたとき、腕を誰かに強く掴まれた。女の子ではない。振り向くと高校生のシナガワだった。シナガワは僕を殴った。それは僕の殴りかたとは比べものにならないほど鋭かった。

 シナガワはカメラマンから彼の車のカギを受け取り、その助手席に僕を乗せた。女の子が後部座席に乗り込む。僕は無抵抗に俯いていた。シナガワは礫の坂をもう一度くだり、こんどは傷ついたカメラマンと肩を組んでのぼってきた。僕はそれを車の窓から横までみていたが、みている僕をみられることが怖くなって目線を下げた。カメラマンが数年前に敷いたのだろうフロアシートが大量の砂を隙間に溜め込んでいた。ドアがもう一度開き、女の子の隣にカメラマンが投げ込まれる。シナガワは車の外で電話をかけはじめた。彼が警察と連絡をとっていることは明らかだった。その声を窓越しに聞きながら僕は不思議と眠く、中途半端な意識のなかで夢のようなものをみた気がする。