シティ

 孫の透におぶられながら、茂男は東京都の平らな街を移動していた。数分前に朦朧として、透、ちょっと、と言っておぶってもらったのだ。茂男はそのことを恥じていた。恥の表情を彼の巨大なサングラスが隠した。茂男は、おぶられているのだが、おぶっている透よりも息を荒くして、息をするたびに体はふくらませたりしぼませたりした。透は、茂男の体がふくらむたびに鳥肌を立てながら歩いた。

「蒸すね」

 この孫はなにを言ってるんだろうと茂雄は思った。今日の暑さは、太陽に灼かれるような、砂漠のような暑さである。蒸さない。そんなことも正しく表現できないのか、自分の孫を腹立たしく思っているうちに、可笑しくなってきた。

「ぶははは」

 茂男は口から唾のかたまりをとばした。蒸すね、と言ってからすでに15秒はすぎた頃だったので、透は脈絡を理解できず、怪訝な表情をつくった。

「急に笑い出してどうしたの」

「楽しいなあ、透」

「うん」

「大学院はどうだ」

「…………」

「ぶはははは」

 孫は新しい生活に不満があった。茂男はそのことをわかっていた。彼は、孫が大学になじめない姿を想像すると笑いが込み上げてくる後期高齢者で、意思を疎通することに興味がなかったから、ただ笑ったのである。茂男のサングラスは光線を放って通行人を灼いてしまおうとしているみたいに強烈に日光を反射していた。

 道に幼稚園があって、それがあまりに突然あったので、茂男の目についた。まるでパン屋や古着屋やコンビニエンスストアが建っているかのように、突然に、幼稚園が建っていた。茂男はまたすこし可笑しくなって口角をあげた。一般家庭の庭なんかよりよっぽど狭い園庭に、オレンジと水色のビニールプールがころがっている。こんな場所で水遊びなんかされたらたまったものではない。子どものほうだってこのような狭い場所に預けられたら人格が歪むだろう。そんなことを考えていたら貼り紙があるのを見つけた。園児募集中。園児募集中と言ったって3歳や4歳の子どもが自分から手をあげてやってくるわけではないだろう。子どもは貼り紙など読まない。親が勝手に預ける。園児募集中。園児、募集中。読みなおしつづけているうちに可笑しいどころか面白すぎて全く表情をうごかせない状態に入ってしまい、茂男は頭のなかで不思議な爆発が起きるのを楽しんだ。

アメリカ」

 幼稚園のほとぼりがさめるかどうかぐらいのときに、茂男はとにかくなにか言いたくなって、脈絡もなく、アメリカ、とだけ言ってみた。透はこれに反応しなかった。聞き取れなかったのか、意図的に無視したのか、茂男にはわからない。

 昼食はコンビニエンスストアのイートインで摂ることになった。茂男はイートインで蛍光灯を浴びながら食事を摂るなんてばかばかしいと感じたが、透の態度が強硬なのでそれに従うしかなかった。とにかく涼しかった。茂男は店内のどこから見つけてきたのかわからない巨大なサラダを食べた。透はそれを眺めていた。透にとって、サングラスに写った葉っぱが次々と片付けられていく光景は見ていて気持ちよく感じられた。

「おお、茂ちゃんじゃない」

「敏ちゃん」

「コンビニで、健康に気を遣ってるの」

「ぶははは、そうそう」

「あはは、じゃあね」

「じゃあね」

 茂男は元同僚の男と5秒足らずのコミュニケーションをして、大声をだして笑った。こういう会話にはどこか電撃的なところがあるな、と茂男は思った。部屋に落ちている髪の毛のかたまりが、風が吹いた拍子にべつの髪の毛のかたまりとぶつかって別れる運動があるとして、すべての人間関係はこの髪の毛のかたまり同士の衝突と似たようなものではないだろうか。元同僚との会話と、それとをほんとうに区別する方法などはないのではないか。突然この種の思念に取り憑かれることは茂男にとって珍しくなかった。彼は思念を振り払うようにサラダの葉を飲み込み、スポーツドリンクで流し込んだあと、あぶなっかしい速さで首をぼきぼきぼきぼきぼきと鳴らした。それで茂男は熱中症から回復した。少なくともそのときの彼の自覚のなかではそうだった。

 コンビニエンスストアから出たところにタクシーが停まっていた。透が運転手と目を合わせるとタクシーの後部座席のドアがゆっくりひらく。真っ黒い車体が青空と雲をあまりにも鮮やかに写していて、茂男は吹き出しそうになったが、自分もサングラスに青空と雲を写している。彼が口角をぴくぴくと震わせるばかりで乗り込む気配を見せないので、透が腕をつかんで強引に車内にひっぱった。定年までタクシー会社に勤めていた茂男は、嗅ぎ慣れた車内の匂いのせいでノスタルジックな気持ちになりそうだったが、耐えた。

「はい、どこまで」

「あのう、N丘公園って……」

「かしこまりました」

 茂男は、首紐に掛けていた旧い携帯電話で麻雀のゲームを既に起動していた。茂男はぶつぶつと何かを喋りながら麻雀ゲームを遊んだ。

「……お祖父様ですか?」

「そうです、熱中症で」

「ええっ、大丈夫ですか」

「大丈夫です、コンビニで少し休ませたので」

「そうですか、大変だ」

「今日なんかもう最高気温だとかって」

「冷夏だとか言ってたのに、例年より暑いじゃないかって」

「毎年じゃないですか」

 茂男の独り言を打ち消すように、透と運転手は無理やり喋った。いやがらせみたいに彼のことを《老人》として話題に登場させたのは、少し大人げなかったかもしれない。会話が途切れてしばらくしてから運転手は少し反省した。その頃には、茂男の独り言は止んでいた。物事に集中しすぎると呼吸しなくなるくせが彼にはあって、先程までぜえぜえ音を立てていた彼の呼吸音が完全に消えてしまった。それはそれで心配になる。透は不満に思った。茂男が、命乞いするマゾヒストの眼で携帯電話の小さな画面をみつめながら、老人に似合わない異常な握力をかけると、彼らのうえを電柱の影が大量に通り過ぎた。

「ほんとは、駅まで歩いて電車で行く予定だったんですけど」

「無茶ですよ、この暑いなか……」

 橋をわたって、悪路のさきの、ばかみたいにひろい駐車場にタクシーは到着した。駐車場では子どもたちとその親たちが影をのばしていた。運転手が透に代金を告げる。大きいのしかなくて。透が茶色の財布から1万円札を取り出すと、運転手は受け取って、お釣りを用意した。

「流星群ですか」

「そうです」

 二人を降ろして、タクシーはつぎの仕事に向かっていった。茂男は、駐車場にとりのこされてしまった気がした。あかるい夏の19時だった。駐車場から広場までの道を、茂男と透は数組の家族に追い抜かれながら歩いた。木の枝を拾って杖にし、茂男は、あと数年でおれは満足に動けなくなるのだと思った。今日は、おれが動けなくなるまえの思い出作りだったのかもしれない。横にいるこいつは、おれが動けなくなることを見越して、今日の予定をたてたのだろう。残酷な奴だ。

 広場に到着するころには暗くなっていた。透は茂男のサングラスをすばやく回収した。

「流れ星だよ」

 子どもに話しかけるような声色の孫に、茂男はまいった。人前でこんなあつかいをうける自分が滑稽だった。それでも従順にくびをもちあげるよりほかに仕方がなかった。茂男は、ふらっ、ときた。流星群がみえた。しかも、星空の全体がふわふわとかたちをとって、それは、神さまにみえた。仏さまにみえた。それはいのれと言っているようだった。おれにいのれ。すぐにでも泣きながらいのってやろうかと思い、醜く深い皺を伝う自分のなみだを思い浮かべると、茂男はもういちど、ふらっ、ときた。そのとき、赤い服を着て、麦わら帽子で、父親に肩車された女の子が視界にうつりこんだ。女の子は赤い服を着ていて、絵に描いたようだった。絵に描いたようなすべてを茂男は嫌っていた。そういうものは、最近嫌になった。彼の卑屈な心性が刺激されるからだった。何の解決にもならないが、彼は大きく口をひらいてみた。すでに神も仏もきえていた。おれは今日ずっと軽度の熱中症だった、意識がはっきりしていなかった。それで神や仏の錯覚をみるなんて妙な体験をした。そういう自覚が茂男に生じた。熱中症の老人が一日かけて公園に運ばれてきた事実が可笑しくなってきて、笑おうとした。大勢の家族連れに囲まれていることを意識してしまうと、結局笑えなかったが……