ふるえる

 まず前提として体が顫える。体育座りのような姿勢をとり、指と指とをがっちり組み合わせて肘を伸ばし、背中をまるめ、船みたいな形になって、上下の奥歯を何度も激突させて音を出しながら、壊れた洗濯機みたく顫える、というような奇妙な時間をひとまず経てから人と話すことがある。病的だと最近気づいた。子供の頃からそうだったのにあまり気づかずに生きてこれたのは、人前で顫えを抑制してこられたことが理由だと思う。不自然でない程度に身体を顫えさせることで、もっともひどい顫えがやってくる気配を体の外に逃がしてやるという技術を無意識に身につけていた気がする。

 僕の顫えが起きるなによりのきっかけとなっているのは、「真剣」な状況に置かれる緊張感だと思う。「真剣」という言葉はしかし不十分かもしれない。「お前の意見を言ってみろ」とか「本当のことを言え」という圧力が働いているような状況が苦手なのであり、「真剣」というより「マジ」と表現したほうがことがらが伝わりやすいような気がする。マジな状況に置かれることに耐えられない。

 金井美恵子深沢七郎「絢爛の椅子」についてつぎのように書く。

絶対にバレないことをすることは、世界への最大の復讐ではないか。親子を屈辱的な罪人にしたてた世界に対する戦いであり、世界はなんといういやらしい様子をしているのだろう。それは自白を強要している。おのれの罪を認めてそれを語ることを、求めているのである。*1

 ここに書かれていることは僕の顫えの解明かもしれない、と思った。「自白を強要」する世界(にたいする拒絶感)に自分は規定されていると考えればいくつかの筋が通るように思えた。

 ところで、金井が絶対にバレないことをどんどんしていこうと主張しているのかは微妙である。そんな行為がどのようにして可能なのかということ自体、全く自明ではない。というのも、「絶対にバレないことをする」というモチベーションによってなされた犯罪が実際には自白へと傾れ込んでしまう必然性について深沢はえがくことができたと(主人公・敬夫を「作家である」としながら)金井が論じていることはとりあえず確かだからである。

絶対にバレないことをもくろんだはずの犯行は、危険な、しかしきわめて当然な踏みはずしをしてしまう。すなわち、犯行は、それを行なわれたことを知らせなければいけないのだ。[断食]芸人が望みつづけたように多勢の観客がいなければいけない。バレないこととは、最初からあの木の椅子、すなわち容疑者の椅子に坐って「僕は無罪だよ」と言い切ってみせるために要請された犯行のことである。容疑者の椅子に坐って自白をしないこと——おのれの犯行を屈辱的に衝動的にペラペラと告白してしまわないこと——しかし、この語ってしまうことあるいは語らされてしまう奇妙な錯誤とはいったい何なのか。おのれの犯行について、ついに語ってしまう錯誤。あたかも犯行は語られるために行なわれたとでもいうように。たしかにすべての犯行は語られるために行為される。*2

 文字を書いているところを学校の先生に見られているときの嫌な感じを僕はずっと忘れられず、あれが生全体の比喩になってしまうということは耐えられないと感じる。しかし実際には、特定個人としてつきとめられるということが社会生活を送る前提ということになっている。そうした「いやらしい様子」をした「世界に対する最大の復讐」として僕はせめて「絶対にバレないこと」をしてみせたいのだが(そして本当に「絶対にバレないこと」をするとは単に何もしないことと等しくなってしまうように思われもするのだが)、そうした「犯行」は実際には「語られるために行為される」のであり、したがって、そのことを告発するように、身体は顫えずにいない。

*1:金井美恵子金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013]3 小説を読む、ことばを書く』、平凡社、2013年、20頁。

*2:前掲書、34頁。