お笑いブーム

数年前に書いた文章の一部を書き換えたものです。

 2018年のM-1グランプリ霜降り明星が、同年のキングオブコントハナコが優勝し、両者とも若い世代での優勝だったことから、同世代の芸人は「お笑い第七世代」と呼ばれ、同時期、お笑いブームが発生した。テレビ番組があり、インターネット上で無料で見られる動画があり、ライブシーンがあって、オンラインチケットが販売されることもあった。それぞれの領域に多くの人が関心を持った。これらのことはすでに少し古びた記憶になりはじめているかもしれない。

 矢野利裕『『M-1グランプリ』とお笑い民主主義』*1は、お笑い文化における師弟制度が崩壊してゆき、最終的にはダウンタウン松本人志によってお笑い界に「民主主義」の文化が到来した、と言っている。有吉を褒めているところ以外は概ね正しいと思うのだが、この文章が書かれた時期と現在とでは状況がやや異なっている。たとえば、2018年以降のM-1グランプリ優勝者がNSC出身者によって占められていないことが指摘できる。それは「民主主義」的な事態とはいえないように思われるからである。

 2018年以降のお笑いにおいて、「民主主義(NSCと吉本の劇場)」というよりは、「大学」と「地下」が強い影響力をもっていた。たしかに、各事務所は、かつてのように芸人に対して規律・訓練をみずから行うということをやめたわけではない。しかし同時にそれとは別の方法を確立してもいる。すなわち、事務所は「大学」や「地下」といった自らの外部に規律・訓練を委託し、芸人として売り物になった段階でそれを買い取るという方法をも大規模に採用するようになっている。

 地下ライブは、事務所の外部でも行われ、それが訓練と淘汰の場として機能している。名前を挙げれば、2010年代中ごろから開催されている「グレイモヤ」は、芸人をアンダーグラウンドから資本へと手渡す環境を整える機能を果たしている。そしてその方向性は、「バスク」の時点ですでに地下ライブに胚胎されていたと考えるべきなのかもしれない。また資本の側も「アンダーグラウンドな人材を買う準備ができている」ことをアピールする。それは昔からそうだったのだろうが、永野や野性爆弾・川島などが起用されるようになった時期から露骨にそうだと思う。「チャンスの時間」は資本の側が起用するに値する芸人であるかどうかの淘汰を行い続けている番組に見える。

 それはしんどいことだと思う。たしかに、Dr.ハインリッヒでもランジャタイでもよいが、お笑いブームのおかげで面白い芸人を発見することができた人がいると思う。それによって「救われた」人すらいるだろうと思う。しかし、ある意味ではそれらはどうでもよいことなのかもしれないと感じることがあり、どうでもよいとは考えない人のほうが圧倒的に多いだろうことが予想できるので悲しくなってしまう。秋田實が作った「漫才」の文化はあるところまでは革命と結びつくものだったのかもしれないが、現在では自民党や日本維新の党と結びついており、2018年以降のお笑いブームもそのことによって可能になったにすぎないのかもしれない。資本主義だから仕方ないという部分はあるが、そうはいっても資本を中心にしてお笑いが回っているという見方をとると一気にむなしくなる。自覚的にせよ無自覚的にせよ、その外部に位置しようとしているアマチュアのお笑い文化が存在しないわけではない。そういうライブシーンが存在することは知っているが、とりあえずここに書いたような問題意識を共有できる場なのかはよくわからない。